さとりの中で生きる

絶望とエクスタシー

そこそこ長く生きてると

絶望の体験がだれにでもあると思う

 

 

どうしようもなく落ち込んで

生命がこのまま消えてしまうのではないか

と感じるような

精神の海の底に沈んでしまうこと

 

そこは

何があるかまったくみえない未知の領域

だから

わたしたちは怖がる

その領域を避けようとする

 

わたしは

何度もこの領域に足を踏み入れた

と思う

 

大切な人との別れ、死

自分がエネルギーを注いできたことが

何もかもうまくいかず

もはやこれまで、と覚悟したこと

 

大げさに聞こえるかもしれないが

それは「死」の領域だった

 

わたしたちは「死」をことさらに怖れる

存在がなくなってしまうという恐怖からだろうか

 

けれど

死はいつもわたしたちとともにある

 

エクスタシーというのは

「小さな死」を意味するらしい

女性はオーガズムに達すると

「死んじゃう」とさけぶこともある

 

宇宙は破壊と再生の連続だ

わたしたちの細胞も

死と再生をくりかえしている

 

わたしたちは

毎瞬ごとに死に、生まれている

小さな小さな死を繰り返している

 

この生でわたしがいちばん

エクスタシーを感じた死は

「エゴの死」だ

 

自我意識が死ぬとき

わたしたちはその断末魔の叫びとともに

悶え苦しむ

 

いままで自分自身だと信じていたものが

剥がれ落ちるからだ

 

だから

味わったことのない感情と

カラダの感覚をもたらす

 

未知の感覚だから

恐怖にさいなまれる

エゴの抵抗はすさまじく

苦痛に耐えきれず

逃げ出したくなる

 

だがしかし

あえてそこにいることを選ぶことができれば

エゴは雲散霧消していく

 

生において

苦しみや悲しみ

試練というものが

この体験を引き起こす

 

たしかに

そんな体験はできる限りしたくはない

 

でも

その試練がやってきたのであれば

ただ哀しみを苦しみを

そこにあらしめて

それとともにいられることができる

そんなつよさが

わたしたちには必要じゃないか

 

涙を流し

喉がかれるほどに嗚咽し

苦しさに悶えてもなお

「生」のエネルギーは注がれつづける

 

エゴが枯れ果て

底の底を体験したときは

浮上するしかない

 

そのときの解放感は

筆舌につくしがたい驚愕だ

 

だからといって

あえて哀しみや苦しみを呼び込む必要はないよ

 

修行僧のように生きている人は

自分を苦行の中に敢えて放り込もうとするけど

 

そんなことは絶対にやめたほうがいい

 

だけど

生の流れの中で現れるもの

それを怖れ避けることに

エネルギーを消費しつづける人生に

ほんとうのよろこびはないと思うのです

 

もし今

哀しみや苦しみの中にあるのなら

その根の深くまで下りていったらどうだろう

 

それを避けようとせず

それとともにあり

それをもっと深く味わってみたらどうだろう

 

すると

もっとも冥い闇は

もっともまばゆい光と

表裏一体だということが

わずかながらでも体験できるかもしれない

 

あそびをせむとやうまれけん

 

神遊りら