女神たちのタオイズムー老子道徳経

老子道徳経-第10章-陰徳の人

老子道徳経

第10章

 

カラダをやすらかにして

母なるタオを胸に抱き

それから離れないでいることができるだろうか

 

氣を充実させ心身をやわらかく保ち

赤ん坊のようであることができるだろうか

汚れた心の鏡を洗い

深い洞察を得て

すこしのキズも曇りもなくいられるだろうか

 

人を愛し、組織を治めて

それでいて

人に知られないでいられることができるだろうか

 

万物が生まれ出づる天門が

開いたり閉じたりして活動の中にあるとき

雌(メス)のように静かに

受け身でいることができるだろうか

 

すべてを把握しながら

何もしないでいることができるだろうか

 

生み出し、養い

何かを生み出しても自分のものにしない

それに依存することもなく

上に立つものになっても

取り仕切ったりしない

 

これを玄徳という

神遊りら 訳

 

 

カラダをリラックスさせ

安心させてやる

すると

世界を包んでいる温かい存在

タオとともにいることができる

 

ひどい環境、食べ物、過度な労働

カラダは、いつも重荷を背負わされてる

いつも、負荷がかかってる

そういうものから離れて

カラダを本来あるべき状態に持ってって

カラダを軽くしてやると

心も軽くなる

すると

タオとともにあることがたやすくなる

 

生まれたての赤ちゃんは

みずみずしくてやわらかい

心もカラダもピカピカ

 

「無垢」

わたしたちは無垢な状態で生まれ

いろんな知識や体験を得て

成長していったつもりが

実は

ほとんどムダな

たくさんのホコリや

重荷をくっつけ続けてたということに

あんまり氣づいてない

 

もちろん

わたしたちは赤ん坊のままではいられない

知識も体験も

ここまで来るのにとっても大事なものだった

 

だけど

それを握りしめたままにしておくのはどうかと思う

それはもう

すでに役に立たなくなっていることに

氣づいた方がいいかもしれない

 

もう一度、無垢になろう

何も知らなかった赤ん坊の無垢さではなく

すべてを受け容れ、味わい尽くした後にくる

「成熟の無垢さ」

 

人びとに知られなくってもいいじゃないか

 

人に対して、社会に対して

今の自分ができることをしていく

そんな「陰徳」の人は

常にタオとともにある

 

タオの人は、出っ張らない

 

いろんなものに溢れるこの世界で

みんなが活動や成し遂げることに躍起になっていても

タオの人はただ

女性的で、開き、受け身でいる

 

何かを生み出し続けるけど

自分がやったなんていわない

生み出したものに頼ったりしない

 

みんな、そういう人がリーダーだったら

とってもいいなと思うはず

高い地位に上ったとしても

決してエラぶったり、仕切ったりしない

支え、見守る

 

そういうのが、タオの人のありかただ

 

 

営(まど)える魄(うつしみ)を安んじ

一(いつ)を抱きて

能く離るること無からんか

 

氣を専らにし柔をいたして

能く嬰児ならんか

 

玄覧を滌除(てきじょ)して

能く疵(し)無らんか

 

民を愛し国を治めて

能く以て知らるること無からんか

 

天門開闔(かいこう)して

能く雌(し)たらんか

 

明白四達して

能く以て為すこと無からんか

 

これを生じこれを養い

生ずるも而も有とせず

為すも而も侍(たの)まず

長たるも而も宰たらず

 

これを玄徳と謂う

(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)