女神たちのタオイズムー老子道徳経

老子道徳経-第9章-「ほどほど」の美学

老子道徳経

第9章

 

いつまでも器を満たしておこうとするのは

やめたほうがいい

極限までとがらせた刃先は

すぐにほころぶ

多くの財宝を所有すると

守るのが大変だ

地位や財産に驕れば

身の破滅をまねく

なにごとも満たしすぎるとよくない

もっともっと、といわず

身のひきどきを大切にする

それが天の道じゃないか

 

神遊りら 訳

 

地位や名誉にしがみついて

引き際をあやまった人はかっこわるい

というか、見苦しいなあと思う

いつまでも後進に道を譲らないおじいさん

政治家とか財界とか、エライ人の世界には

そういう人がたくさんいる

 

「ほどほど」のうつくしさ

というものをわきまえていきたい

と思う

 

「今ここ」にある十分なもの

くつろぎや充実感よりも

未だなされていない達成を優先する

 

なにごともギリギリまでやろうとする

まだまだ、と上を目指そうとする

もっと満たそうとする

もっと良い未来があるはずだ、と

 

この世で「成功」するためには

そういうあり方が必要だと思っていたけど

 

「今ここ」のほどほど感

過ぎたるは及ばざるがごとし、というけど

もしかすると

「及ばない」ぐらいが

物足りないくらいが

ちょうどいいんじゃないか

と思ったりする

 

まわりの人は

あんたも丸くなったねとか

年をとったね

とかいうかもしれないけど

まあ、たしかにそうなんだけど

 

でも心は

かつて若かったいつの時代よりも

今がいちばんみずみずしく若い

って感じている

 

血氣盛んに何かを追い求めているのが

若々しいことだと思っていた

そうしていたころの自分は

エネルギーに充ちているフリをしながら

いつもクタクタに疲れていた

 

今は、ぜんぜん派手じゃないけど

まあ、そうとう地味なんだけど

なんだか、エネルギーに充ちてる

そんな感じがする

 

ご飯がとにかく美味しいとか

お風呂のお湯がカラダの芯に沁みるとか

季節がうつろう香りを毛穴から取り込むとか

 

前は、ひとつひとつを味わうことなんて皆無で

いつもここではないどこか、に

想いを馳せていた

 

もったいないことだった

 

今はね

ちょっとイヤなことがあっても

カラダが疲れていても

心はそれほど左右されなくなっている

 

溢れんばかりのエネルギー、という感じじゃなくて

派手な動きはないんだけど

いつも穏やかに微振動しているような

とても、静かな動きの中にある

 

出っ張ろうとがんばる自分を

わたしはやめたんだな

 

もう、そのステージは終わったのに

そこに居座りつづけることは

誰のためにもならない

とくに、自分自身のためにならない

 

生の体験のジュースを絞り尽くして

カスカスになっているのに

もはや

与えることも

与えられることもないのに

まだその体験にしがみついていたら

 

まわりも辟易しているし

なにより自分自身が辟易してる

 

出っ張ろうとしていた自分が引っ込むと

違う世界が見えてくる

そう思う

それは、とてもみずみずしい世界

 

居座りつづけるために

状況を維持するために

使っていたエネルギーを

新しい場所へと向けるのはきっと楽しい

 

今のこの伊那谷での生活は

世捨て人のようで

人生終わった感がしてたけど

おまけの人生ほど

あそびにみちてくるんじゃないか

 

年を重ねる、というのは

体験の大きさや激しさよりも

体験の奥深さを味わう能力が増す

ということだと思うから

 

俗世間にいながら

そこからちょっと引っ込むことで

小さなよろこびを

カラダの細胞全部で深く深く感じることができる

 

わたしは今

それを存分に味わっている

なんてありがたいことなんだろう

 

神遊りら

 

 

持して之を盈(み)たすは

其の巳(や)むるに如かず

揣(きた)えてこれを鋭くするは

長く保つべからず

金玉堂に満つるは

之を能く守る莫(な)し

富貴にして驕るは

自ら其の咎を遺す

功遂げて身の退くは

天の道なり

老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)