女神たちのタオイズムー老子道徳経

老子道徳経-第4章-無尽蔵の慈しみに抱かれて

老子道徳経

第4章

 

タオは空っぽで

なにもないようにみえるけど

無尽、無限のはたらきでみちている

その空っぽが

何かでみたされてしまうことはない

なにかで満ちていると

使い果たされれば尽きてしまうけど

空っぽは無尽蔵

だから、無限

 

底なしの淵のように深い深い

あらゆるものの根源

 

それは

鋭くとがったものを丸くし

もつれをほどいて

まばゆいばかりの強い光をおさえ和らげ

チリとひとつになる

 

湛(たた)えた水のように存在する

その奥深くにあるなにか

 

わたしは誰の子だろうか

まぎれもなく

この深淵なるタオの子だ

神遊りら 訳

 

 

わたしたちは

母の子宮から出て

英雄の旅を始めることを決意した

 

そこにあるのは

絶対的な安心感からの断絶

 

だからわたしたちは

絶対的なぬくもりを

絶対的な安心感を

「母なるもの」を求めつづける

 

現実世界の母はあるていど

その役を担ってはくれるかもしれない

 

けれど

わたしたちは

ほんとうは誰の子なのかを

生の旅の途上で模索することを促される

 

深い深い底なしの意識の領域

わたしたちは

何から生まれ

何とつながりあっているのか

 

わたしたちの旅は必然的に

「根源」へといざなわれる

 

そうして出逢えた絶対的な安心

わたしたちが生み出されていく

すべてが生みだされていくところ

そして

すべてが還っていくところ

いつもいつも絶え間なく

わたしたちを慈しみつづける存在

 

なにもない

でも

同時にすべてがある

 

いくら汲んでも

決して枯れることのない

無限のからっぽ

すべての源

 

わたしたちは

ほんとうは

一度として

源と断絶したことなどなかった

 

母なるタオと断ち切られ

孤立無援で生きていかなくてはならないと

思い込まされていただけだったんだね

 

母なるタオは

いつもそこにいた

それなしで生きてこられたことなど

一度だってなかったんだよ

 

だから

いつだって安心していいんだよ

りらの響き 案内人 神遊(かみゆう)りら

 

道は沖(むな)しきも

これを用うれば或(ま)たみたず

 

淵として

万物の宗たるに似たり

 

其の鋭を挫(くじ)いて

その粉を解き

其の光を和らげて

其の塵に同ず

 

湛(たん)として存する

或るに似たり

 

吾れ

誰の子なるかを知らず

帝の先に象(に)たり

(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)