老子道徳経
第2章
人びとは
美しいものを「美しい」と認識することを
当たり前だと思ってる
でも、そう決めつけることが
実は醜いことかもしれない
善いことを「善い」ということに
疑問を抱くこともない
でも、「善い」と決めつけるところに
「善とは反対のもの」が生まれる
美しさがあるから
醜さがある
善があるから
不善が、悪がある
有は無があってこそ
無は有があってこそ
それぞれを相手として生まれる
片方だけではなりたたない
難しさと易しさも
互いに相手があるから成り立つ
長いがあるから
短いがあり
高いがあるから
低いがあり
音も声も
それぞれのトーンがあるから
ハーモニーになる
前、後ろも
お互いがあるから
順序づけしてうまくいく
それを知っている人は
どちらか一方に決めつけたりしない
ムリに事を起こそうとせず
自然にまかせる
「無為」に身をおき
言葉や概念という
表面的なもので
浅はかな表現をしない
さまざまなことが起こっても
それについて語ったり説明したりせず
なにかを生み出しても
自分がやったのだ、と威張ったりしない
大きなことを為しとげても
それをよすがにすることもない
成功しても
その栄光に居すわることもない
だからこそ
その栄光が奪われることもない

わたしたちが住んでいるこの世界は
相対性の世界
天と地がわかれ、生まれた世界
「美しい」があるから「醜い」が
「難しい」があるから「易しい」が
「長い」があるから「短い」が
「高い」があるから「低い」がある
すべての判断や決めつけは
対象が、相手があって成り立つことだ
比較の対象がなければ
言葉で表現することはできないよね
たとえば
「温度」というものさしがあるとする
0度というと、わたしたちは
「冷たい」と定義するけど
絶対零度-273℃と比較すれば
氷点の0度はとてつもなく熱い
ほんとうは
すべてが相対的であって
絶対的なものじゃない
この世の多くの人びとが
「そうだ」と認めている取り決めごと
それを
わたしたちは「絶対的なもの」だと
信じ込まされてる
音や声も
どの音が美しいとはいえない
あらゆるトーンが調和して
美しいハーモニーをうみだす
すべては
相手があって成り立つこと
それがわかるようになると
美しいとか醜いとか
善いとか悪いとか
決めつけることがばかばかしくなる
それは
「現れ」のひとつの状態だと思えてくる
この世界は
なんとなく、とか
曖昧なままにしておくことを嫌う
エビデンスを求める
白黒ハッキリつけることを求める
そうじゃなきゃ、信用できない、っていう
でも
「解釈し、決めつける」ことによって
わたしたちは
すごく大事なものを切り捨ててるんじゃないか
答えを決めないと、わたしたちは落ち着かない
曖昧なままにしておくほうが
むずかしいから、人は答えを求める
その答えが正しかろうが間違っていようが
そんなことはどうでもいい
人はただ、「一致した答え」を求める
「ラベル」と「名前」を求める
そして
「名付け、決めつける」ことによって
いろんな可能性を
遮断してしまっているのではないかな
「わたし」がやったんだ
「わたし」の成果だ
というから、苦しくなるんじゃないかな
ここは
何にでもラベルを張りたがる
「名のある世界」
善いひと、悪いひと
優しい、非情
美しい、ブサイク
デキる、デキない
立派、取るに足らない
どっちかが正、善で
どっちかは誤り、悪である
わたしたちはさんざん
この世界のラベリングによって
切り刻まれて
苦しんできたんじゃないかな
自分や他人にラベルを貼る
そんな生き方に苦しむなんてばかばかしい
ラベルを貼るのは
ひとつのあそびとしてなら
けっこうエキサイティングだ
ただ
貼ったラベルが
「ほんとうの自分」だと勘違いするのはやめようか
ラベルに翻弄される生き方は
ほんとうに、ばかばかしい
名前のある世界をあそぶのはたのしい
でも、それに翻弄されつづけるのは
ちょっとつまらない人生だね
わたしたちは本来
名づけようのない存在なんだから
かみゆりら
天下皆、美の美たるを知るも
これ悪のみ
皆、善の善たるを知るも
これ不善のみ
故に
有と無と相生じ
難と易と相い成り
長と短は相形(あらわ)われ
高と下と相い傾き
音と声と相い和し
前と後と相い随(したが)う
是を以て聖人は
無為の事に処り
不言の教えを行う
万物焉(ここ)に作(おこ)るも
而も辞(ことば)せず
生ずるも而も有とせず
為すも而も侍(たの)まず
功成るも而も居らず
夫れ唯だ居らず
是を以て去らず
(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)