さとりの中で生きる

ふたつの生き方

創造の音霊☆サウンドアルケミースペース~神遊kamiyuu~へようこそ。

私たちはひとりひとり
固有の人生を彩りますが

人の生き方は
大きく分けると二つしかありません。

あるがままの自然な生き方
あるがままでない不自然な生き方

このふたつだけです。

私がなぜ今
こういう仕事をしているかといえば

私自身がこの半生以上
不自然極まりない生き方をしてきて

とても苦しい想いをしてきたから。

ならば
残り数十年
とにかく
『自然のままの自分で生きたい』
そう強く願うようになりました。

でも、この願いが出始めたとき
自然に生きたことのない私は
自然に生きようと頑張っていました。

変な話ですけどね

自然に触れれば、自然体になれるのかな
自然食を心がければ
自然素材の服を着れば、自然に生きられるようになるのだろうか。
どうすれば自然なんだろう?

と考え込んでいた時期があります。

本当におかしな話です。

何かになろうとして
努力することが不自然なことなのに。

こうなりたい、こうありたい、という
目標や理想というものは
人生の活力にはなるでしょうが

それがメインになると
とても苦しくなります。

追い求めすぎると
理想や目標に合わせようとして
自分に無理させることが習慣化します。

そして、無理をしている
不自然な状態に慣れてしまい
それが自分だと思い込んでしまいます。

何をしていても
何を成し遂げても
周囲に認められても
決してくつろぐことはなく
心の満足感もない。。

『自然であること』は
今ここのすべてを認め
くつろいでいられることだと思うのです。

特に
『今ここ』の自分を認め
くつろいでいることだと。

そのとき自分が感じていることが
喜びであれ
苦しみであれ
それを正直に表現して味わえば

実は
心の平安はすぐにやってくることを
最近になって実感しています。

私たちは
他人のわがままは許せても
自分自身のわがままを許すことが苦手です。

不安なら、不安だと
怖いなら、怖いと表現していいし
怒りにふるえて
許せないのに許すふりもしなくていいし

それを
無理に押し殺して
平氣なふりなんてしなくていいんじゃないでしょうか。

『平氣なふり』は、私たちを麻痺させる
危険な行為です。

何かすばらしいものを得るために
心が嫌がることを無理にさせることも
とても不自然ですね。

正直な人はかわいいと思うのです。

皆が大人げないと揶揄しても
きっと、その人のかわいらしさを認めてくれる人がいるはず。

自分を押し殺して
そこそこ皆に好かれるよりも

ほとんどに愛想つかされたとしても
ひとりか二人、本当の自分を愛してくれる人がいる

そんな人生の方が味わい深いんじゃないかな
なんて最近は思うようになりました。

あるがままの自分で生きることは
ある意味
勇氣のいることかもしれません。

でも
もういいじゃないですか。

不自然な人生、飽きたのではないですか?

何かを達成するための人生
誰かに好かれるための人生

そんなもののために
私たちは生まれたわけじゃないですよね。

あるがままに
自然のままに生きることは

不自然に生きてきた私たちには
はじめ、かえって不自然に感じるかもしれないけど

自分自身のカラダの声に
ハートの鼓動に
素肌の感触に
まずは意識を傾けてみましょうか。

 

音霊アルケミスト神遊りら