女神たちのタオイズムー老子道徳経

老子道徳経-第56章-究極の自由人

老子道徳経

-第56章-

 

ほんとうに知っているひとは多くを語らない

ペラペラと知識をひけらかし、喋りまくるひとは

何にも知らないたわけだ

 

眼、耳、鼻、口という

欲望の穴をふさぎ

知の入り口をとざして

鋭さをまるめ

そのもつれを解き

きらびやかな光をやわらげて

塵とともにある

 

これを、玄同という

玄(タオ)と一体である態度だ

 

だから

こういう人には

なれなれしい態度はとれない

疎んじて遠ざけたりもできない

なにか利益を与えることもできない

なにか害を与えることもできない

貴くすることもできなければ

賤しくすることもできない

 

だからこそ

この上なく貴い存在なんだ

 

神遊りら 訳

 

タオとともにある人は

あらゆることから自由だ

自由とは、何か

外側の一切のものに左右されない生き方だ

と私は思う

 

外側からのはたらきかけが

この世的に良いものであろうと悪いものであろうと

その人には何の影響も与えない

与えることができない

 

ことあるごとに影響を受けまくる

私のような人間には及びもつかないけどね

でも、こんな境地になったことが

この人生で何度かあるよ

 

もう、この現実がどうであろうと関係ない

「わたしがわたしであること」だけ

ただ当たり前に選択した

 

そんな瞬間がきっとあるはずだ

 

「わたし」として真に立ったとき

「私」としての「個」としての

分離意識がなくなるときがある

 

社会の情報を知性として重んじて

それをペラペラとしゃべっているうちは

それは絶対にわからない

 

「知」への信仰と欲望が止んだとき

わたしたちはとてもしずかになる

 

そして、その静けさの中に身を置くことを

なによりも大切にしていけば

誰も、その領域には踏み込むことができない

 

だれかがあなたを侮辱する

あなたは、それを超然と見守る

そうすれば

相手は、あなたに触れることはできない

 

社会は、私たちの傷を責めてくる

その干渉が

良いものであっても

悪いものであっても

傷を刺激してくる

 

褒められようと

けなされようと

それに心がいちいち激しく動いているようなら

感情は翻弄され続ける

傷を広げつづけることになる

 

心に翻弄されている以上

わたしたちは、決して自由にはなれない

 

タオの人は、外側の力から完全に自由だ

そういう生き方こそ

何ものにも代えがたいものじゃないかな

 

そして

そういう生き方をえらぶことが

とっても容易くなっているんだよ

今は、そういう時代なんだ

 

あそびをせむとやうまれけん

 

神遊りら

 

 

 

 

知る者は言わず

言う者は知らず

其の 兌(あな)を塞ぎて

其の門を閉し

其の鋭を挫いて

其の紛を解き

其の光を和らげて

其の塵に同ず

是れを玄同と謂う

 

故に得て親しむべからず

得て疎(うと)んずべからず

得て利すべからず

得て害すべからず

得て貴くすべからず

得て賤しくすべからず

故に天下の貴きものと為る

(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)