女神たちのTAOー老子道徳経

老子道徳経-第40章-大器晩成なデクノボー

老子道徳経

-第40章-

タオを聴いて、それをよく理解する人は

それを実践することにつとめる

ふつうの人がタオのことを聞くと

その存在を信じるようで信じきれない

タオから遠ざかった人は

そんなものあるはずがない、と笑う

そうした人に笑われないようなら

タオのあり方に沿っているとはいえない

 

こんな格言がある

本来の進むべき道は

ぼんやりと暗くみえる

進んでいるのに後退しているようで

スムーズな道なのにごつごつしているようだ

タオの徳は

谷のように低くあって

広くいきわたっているのに足らないようで

しっかりと立脚しているのに怠けているようにみえる

純朴な質は変わっていくようで

真っ白なのに汚れているようだ

タオの大きさゆえにその四方はみえない

大器はずっと後になって完成する

大きな音は、耳には聞こえないほどかすかだ

大いなる潜象ータオは、形のないもの

 

タオは、隠れている「名無きもの」

いつのときも、ただ与えつづけ

完璧に事を成している

 

わたしたちは

自分たちが理解できないことは

とても受け容れがたい

理解不能なことは

できるだけ遠ざけたい

 

「知」が支配的な今の世はエビデンス重視

科学的に証明できない

再現性のないものは

嘲弄されてきた

 

誰がみても明らかなもの

同じもの

それを、社会は真実だという

 

だけど

その真実は次の瞬間には変わってしまう

この世的な真実とは

社会が定めた「取り決めごと」だから

 

現象を生み出しているのは

目に見えない

タオという奥の奥の世界

 

はかり知れないほど大きいから

その大きさがわからない

とてもゆったりと動くから

わたしたちの近視眼では

本当の動きはとらえられない

 

大器が晩成するプロセスは

周りから見たら

とてもムダな時間に見えるかもしれない

時間だけが流れていって

何も成し遂げられていない

ってね

 

でもあるとき

それまで目に見えない世界で

着実に積み上げられてきたものが

時を得て、現象化される

それは

現象の世界では見えなかったけど

タオの世界ではすでに成就していた

 

この世の価値観では

あまり称賛されない

大きく、純で、賢い人がいる

その人は

ノリがわるくて

冴えなく見えるかもしれない

あらゆるものを見通す智慧を持ちながら

のろまな愚か者のようであるかもしれない

社会的にみれば

役に立たないデクノボーかもしれない

 

わたしたちの価値観は

タオのあり方から離れすぎてる

 

だからね

ちょっと

タオのあり方に沿う生き方をしてみようと思った

 

社会の価値観にがんじがらめになってる自分が

とてもとても苦しかったからね

すこし脇に逸れてみた

 

この世界の眩すぎる光が

わたしたちの心を

暗くしているかもしれない

溢れかえるモノや情報が

かえって私たちを貧しくしているかもしれない

求めすぎる生き方が

わたしたちの心を飢えさせるのかもしれない

 

そういうものに

じぶんの本性の光をかき消されているんじゃないか

って思ったから

今は

そういうところと少し距離を置いている

 

自分の中のほのかな光をたよりに

眼の前に現れてくる道をただ歩く

そんな生き方もいいかもしれない

って思ったんだ

 

かみゆりら

 

上士(じょうし)は道を聞けば

勤めてこれを行う

中士(ちゅうし)は道を聞けば

存(あ)るが若(ごと)く亡きが若し

下士(かし)は道を聞けば

大いにこれを笑う

笑われざれば、以て道と為すに足らず

 

故に建言(けんげん)にこれ有り

明道は昧(くら)きが若く

進道は退くが若く

夷道(いどう)は纇(らい)なるが若し

上徳は谷の若く

広徳は足らざるが若く

建徳は揄(おこた)るが若し

質真は渝(かわ)るが若く

太白は辱(じょく)なるが若く

大方は隅(かど)無し

大器は晩成し

大音は希声

大象は形無しと

 

道は隠れて名なし

夫れ唯だ道は

善く貸し且つ善く成す

(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)