創造のアルケミー

絶望はやさしい

ようこそ☆彡創造美をあそぶスペースへ

少し私のお話をさせてください。

少し前、とても大きな変化がありました。

私は、物心ついたころからずっと
頭の中で止むことのない思考の喧騒の中に生きてきました。

この思考の声を消すため
思考の声に応えれば消えると信じて

暴れる思考をなだめるためにあらゆる手を尽くしてきました。

今思えば
「自分は何者か」という定義づけが欲しかったのてす。

存在の意味が欲しかったのです。

「自分は何事かを成し遂げなくては自分を認められない」

「意義のある何か」をやっている自分でないと、認めることができなかった。

すべては

自分を愛したいという想い

愛するに値する自分になろうとしていたのです。

人はそのままで価値がある。。
そのままであるからこそ、価値がある

これは、長いセラピスト生活の中で
他人にも自分自身にも説いてきたことです。

でもそれは、私にとって
理想であり、どこか上滑りな戯言のようでした。

これこそが
自分の使命だと天命だと信じられる
迷いのない道を歩みたい、、

ずっとそう願ってきました。

でも
あらゆる行動の根底には
「意義ある自分でありたい」
「自分に認められる自分でありたい」という願いが常にありました。

でも、そう願うほどに
迷いは大きくなっていく。

逃れようとするほどに
それは一層付き纏う。

なぜか。。

認められようとしていた自分、というのは
本当の自分ではなかったのです。

私は
エゴに認められようと奮闘していたからです。

さまざまな手放しを経て
格段にエゴが薄くなり
エゴの影響を逃れたつもりでいましたが

明確に氣づきました。
まだまだエゴの術中にあったことに。

美しくあろうとする
より優れようとする
その根底にある緊張感

エゴのご機嫌をうかがっている自分自身。

エゴを本来の従者の働きに戻したつもりが
まだまだ主導権を握られていたのです。

私は、サレンダーするしかありませんでした。

何かを良くするための生き方メソッドはやり尽くしました。

求めることも
何かになろうとすることも
美しく装うことも
輝かしい未来を観ようとすることも

ただ虚しかった。

でも同時に
虚しさと共にあることは
そんなに居心地の悪いものではないのだ
ということも知りました。

そこには
何も求めない
この、脱力した
虚無の状態である自分自身をゆるす
温かな存在とともにあれるからです。

永い永いときをかけて
辿り着いた場所は
驚くほど地味な場所でした。

輝く栄光を求めていたはずが
この何もない
人は見向きもしないような
なんてことないスペースに今はいる

人生は、なんてことないのかもしれません。

何者になる必要もない
優れる必要もない
誰かに愛されようとする必要もない

ただ、この地味なくつろぎの中にいようと。

それをゆるしたとき
私はとめどなく溢れる涙を感じていました。

神遊りら