さとりの中で生きる

はじめのわたし、とエゴ

この世は

大きくふたつに分けられる

 

自然か不自然かだ

自然は、自ずから然り

ただ、そうあるだけ、の状態だ

不自然は

ただ、そうあるだけ、でいられない

 

不自然さは

ものすごく居心地がわるい

 

だから

わたしたちは

その居心地の悪さをどうにかするために

またまた不自然な努力をする

そして

不自然の上塗りをしていく

 

「努力」というのが

自然ではないんだ

 

わたしたちはもれなく

「自我」をいうものを持っている

これは

タオー宇宙ーおおもとの神さま

はじめの、おおもとのわたしが

この世でわたしたちを活動させるためにつくった道具だ

 

自我-エゴは

「ほんとうのわたし」がこの世で

さまざまな体験をするための

便利な道具であったはずなのに

いつしか「ほんとうのわたし」のフリをするようになった

 

そしてほとんどのひとは

「ほんとうのわたし」と

「エゴ」の見分けがつかなくなった

 

でも、けっこう見分けはかんたんなんだ

 

ほんとうのわたし、は自然

エゴは、不自然だ

 

ほんとうのわたし、はくつろぎ

エゴは緊張する

 

ほんとうのわたし、はしずかだ

エゴはさわがしい

 

ほんとうのわたし、はただそこにいる

エゴは動き回らずにはいられない

 

とにかく

ほんとうのわたしは

落ち着いてる

どんなに忙しくて

カラダは素早く動いていても

中心はとてもしずかで澄んでる

 

でも

エゴは

見た目はとても落ち着いているように見えても

中身は土埃が舞うような喧噪の中にいる

 

自分の内側を観る習慣をつけると

その区別がついてくる

すると

驚くと思うよ

 

なにしろ、大概のひとは

エゴの支配下にあるからね

その支配が当たり前になって

自分の不自然さに全く氣づいていない

 

そのエゴのはたらきを観る

ただ、観ること

すると

エゴは消えていく

 

観ているのは

ほんとうのわたしだ

ほんとうのわたしの

「観る」という行為は

盲目的なエゴへの追従に

光を当てること

 

もともとエゴは臆病なんだ

ほんとうは実在しないから

主張しないとイニシアティブをとらないと

消えてしまうと思ってる

だから、やたら努力する

やかましく騒ぎ立てる

 

でも、これはエゴの本意じゃない

道具が主人のフリをするのは

ものすごく疲れるはずだ

 

だから

ほんとうのわたし、が

もともとそうであったように

エゴを使ってやることだ

 

それには

わたしたちがエゴと同一化しないこと

不自然さをどんどん落としていくことだ

 

それには

努力は必要ない

落とそうと努力すれば、またエゴが肥大する

 

だから

自然と一体になればいい

 

自然は、いちばんタオに近い

いのちのエネルギーがそのまま現れてる

 

都会の便利さはとても魅力的だ

自然の中で生きるというのは

なかなかに骨が折れる

 

でも

残りの人生

わたしはできうるかぎり

自然に生きていきたい

 

だから

もうすぐ

わたしは都会のくらしを離れて

自然に身を置くつもりだ

 

あそびをせむとやうまれけん

神遊りら