4月のはじめ
長野県伊那市に引っ越してきてから
半年が経ちました
長年住んだ
語り尽くせない思い出のつまった横浜の家を手放して
知る人のいない、新しい土地へ
これまで多大なエネルギーを注いできたものを
強制的に手放すことを余儀なくされ
田舎のちいさな平屋に住むことになった自分
たくさんの愛着のあるものたちを手放すことは
かなり痛みが伴ったけど
それはわたしにとって
抱えていられなくなるほど重く
古いものだったのかもしれない
これもタオの導きだろう
この半年間、わたしは死人のようだった
何のエネルギーも湧かず
何の希望も意欲も湧かず
すべてが枯れ果ててしまったようだった
かつての私を知る人は
きっと
わたしだとはわからないんじゃないかな
と思うほどに
明るく快活でエネルギーにあふれ
人を楽しませる人でいたい
という
積年の願望は
燃え尽きた炭のように
音もなく、しずかに崩れ去った
煌めいた自分でいたい、という美しい願望は
根深い呪いとなって
わたしをずっと苦しめ続けていた
人に認められるわたし
自分の理想のわたしでありたいという
その願望のために
人からの承認を得たいがために
自分自身の理想のために
ほんとうの自分を押さえつけてきたのだ
輝きたいという願望は
輝いているように見せたいということだ
自分は輝いていない
そう思うから
輝かせようと努力する
いつも「ステキ」に見られるよう、ふるまう
その不自然さが、本来のエネルギーを奪っていたのに
それに氣づきながらも
まだずっと
その不自然なあり方をやめられないでいた
新しい土地での生活は
何のやる氣も湧かず
カラダも心もキツイ毎日で
かんたんな家事と散歩以外なにもせず
ほとんど眠っていた
でも
朝の散歩だけは
欠かさず日課にするようにした
ひきずるように歩き出す
すると
この土地の「自然」が後押ししてくれた
田園を散歩する
新しい朝の空間に満ちたプラーナ
湿った土のにおい
朝露のきらめき
まだ残雪を冠した白い山々
中でもわたしをいちばん勇氣づけたのは
野花のいじらしくも凛とした美しさ
今まで、それほど目にも留めなかった雑草たちの
なんとイキイキと美しいことか
植物に感情はないだろうけど
そこにはたしかに生のよろこびがある
毎日彼ら彼女らと出逢うことが
わたしの楽しみになった
5月になると田起こしされ
水がはられて、苗が植えられる
それもまた美しい風景だけど
田んぼが整備されると
その端に咲く花たちが刈られてしまう
それはすこし、寂しくもある
でも野の花は
刈り取られ
炉に放り込まれることになっても
その瞬間まで
ただそのときを生えている
わたしたちは
そんなふうに
未来を憂うことなく
過去を悔やむことなく
ただそのときを生きたことがあるだろうか
今、この身を刈られることになっても
燃やされることがあっても
ただ自分を生きたからいいのだ、と
言えるほど熱い瞬間を生きたことが
情熱の炎は
熱くもあり、また
とても静かで涼やかなものかもしれない
何かのために生きるのもいいけどね
ただ生を生きるということ
何の目的もなく
ただ、やってくるものにゆだねて
本心からよろこんで生きるということ
そんな生き方は
つまらないものに見えるかもしれないけど
内側で燃える火の熱感がある
そんなふうに感じるんです
次の瞬間を想いわずらうことなく
ただ、この瞬間を
そのままの自分でいることをゆるそう
どんな自分でもいい
死人みたいにエネルギーが枯れてしまっているのなら
そのままでいい
なまけものって言われたって
何もしたくないなら、しなくていい
世間が、他人が、自分のアタマの声が
もっとちゃんとしろっていっても
そのままでいい
やがておのずから動き出すそのときまで
自分自身をまもってやろうじゃないか
もともと持っている意欲の炎が燃え立つまで
ほんとうの自分が輝きだすまで
待ってみよう
そんなことをしたら
一生動かずにおわってしまうんじゃないか
そんなことでいいのか
生をムダにしないか
そんなふうに何度も思う
そうだね
もしかすると、一生動かないかもしれない
でも
偽りの場所から生きること
ズレた自分で生きるより
わたしはそれを選ぶよ
誰になんていわれてもいい
わたしは、わたしであることを
わたしにゆるそう
何が正しいのか
どうすれば幸せになれるかなんて
もうどうでもいい
わたしはもう
自分自身をごまかさない
ウソとごまかしの中で生きてきた心とカラダには
休息が必要だ
特に心は
氣づかないうちに大けがをしていることが多い
でも
そのときがくれば
わたしたちは自然と動き出す
わたしたちは、自然の一部
自ずから、そうなるようにできているんだから
心配無用
ことさらによろこびを求めることも
ことさらに輝きを求めることも
全然必要ないんだよ、ほんとうは
~りらの響き~案内人 神遊(かみゆう)りら