女神たちのタオイズムー老子道徳経

老子道徳経-第66章-大海のように低く、広く

老子道徳経

-第66章-

 

海は、あらゆる谷川の王だ

というのも

海は低い場所にあり

すべてがそこに集まるからだ

 

これに倣(なら)うなら

もし、人を治める立場にあるなら

身を低くすること

謙虚に話し、謙虚にふるまうことが大切

 

そういう人が上に立つと

みんな、重くならない

常に自由でいられる

 

だから

人びとはみんな

その人をよろこんで指示する

だれも、疎んじたりしない

 

その人は

何ものとも争うことがないから

誰もその人と争うことなどできないんだ

 

神遊りら 訳

 

 

わたしたちは

なんで争うのだろう?

 

詰まるところ

「自分を通したいから」じゃないか?

 

人より高くあれば

人より優れれば

人を打ち負かせば

「自分」を通すことができる

って

思ってるからじゃないか?

 

でもね

それは、あんまり賢くないやり方かもしれない

とんがって、自分を大きくみせたい人と

誰が一緒にいたいと思うだろう

 

誰も、その人に心を開くことはできない

安心することなんてできない

 

高くあろうとする人は

観ていて、痛々しい

自分を通そうとする人は

自分を認めてもらいたくて躍起になってる

 

かわいそうな、傷ついた子ども

 

自分のやり方が通ると満足し

否定されれば落ち込み、怒り出す

 

 

そもそも

人の上に立ちたいなんて思うこと自体

バカげてる

 

タオの人は

そんなことまず思わなくて

身を低くしながら

人の後ろにいながらも

その静かな輝きゆえに

自然と前に押し出され

氣がつくと

人びとの上に立っている

 

『紅は園生に植えても隠れなし』

って、ことわざがある

優れた人は、どこにいても自然と頭角をあらわす

 

その地位に何の執着もなくて

ただ、自然に

タオのあり方に沿って

柔らかく、争わずにいるから

誰も

その人に攻撃できない

 

人が攻撃できるのは

相手の中に攻撃性があるときだけだから

 

ねぇ

海のように大きく安らいでみたいね

 

わたしは本当にそう思うよ

 

両手を大きく広げて

すべてを抱擁して

「自分」というものさえ

溶け去っていったらいい、と

 

あそびをせむとやうまれけん

神遊りら

 

 

紅海の能く百谷(ひゃっこく)の王たる所以の者は

其の善くこれに下るを以て

故に能く百谷の王たり

是を以て民に上たらんと欲すれば

必ず言を以てこれに下り

民に先んぜんと欲すれば

必ず身を以てこれに後(おく)る

 

是を以て聖人は

上に処(お)るも而も重しとせず

前に処(よ)るも而も民は害とせず

 

是を以て天下は推すことを楽しんで厭わず

其の争わざるを以て

故に天下能(よ)くこれと争う莫(な)し

(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)