老子道徳経
第21章
孔徳(こうとく)の容(よう)は
惟だ道に是れ従う
道の物たる、惟(こ)れ恍惟れ惚(こつ)
恍たり惚たり、その中に物有り
惚たり恍たり、其の中に象(しょう)あり
窈たり冥たり、其の中に精(せい)有り
其の精甚(はなは)だ真、其の中に信有り
今より古えに及ぶまで、其の名は去らず
以て衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ
吾れ何を持って衆甫の然るを知るや
此れを以てなり
(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)
タオは、この世においては人や物に宿り
徳としてはたらく
おぼろげでぼんやりしてよくわからない中に
何かの存在がある
何かのかたちがある
奥深くて暗い、微かな中に
活力が動いている
とても純粋なエネルギーのエッセンス
その中にたしかなものがある
はるか昔から現代まで
タオと付けられたその名は消えることがなかった
それは
あらゆるものの根源の存在を統べるものだ
神遊りら 訳
タオの実体をつかむことなんてできない
どれだけ科学が進歩しようと
それは決して明かされることはないだろう
だけど
タオを深く感じることはできる
それができるのは
わたしたちが
「いのちの存在」として生きているときだ
タオはいのちだ
あらゆるものの中にタオは内包されている
そして
タオの中にあらゆるものが内包されている
タオから生まれ、タオへと還る
タオの本質はよろこびだ
わたしたちはどんなときも
よろこびなしには生きられない
どんな困難の中にあっても
わたしたちが生きていられるのは
よろこびが存在しているからだ
純粋なエナジーのエッセンス
大元のエナジー
それは無限の愛ともいわれる
ただね
愛というのは
なかなかどういうものか
わたしにはよくわからない
愛はさまざまなカタチをとる
人によって、まったく姿を変える
あるいは
捻じ曲げて利用されたりすることさえある
でもね
よろこびというのは
だれにでもわかるものだと思うんだ
だから、とても純粋だ
愛とは何か、と哲学者は考えたりするけど
よろこびとは何かを
思考することはあんまりない氣がする
それは
いのちと直結するものだから
わたしたちすべての中にいのちはある
そして
いのちの中にわたしたちはいるんだ
いのちから生まれ
いのちを生きて
いのちに還る
それが、この世の実相なんだ
あそびをせむとやうまれけん
神遊りら