老子道徳経
第12章
五つの色のまばゆい色彩は、目をくらませる
五つの音をまじえた手の込んだ音楽は、耳をダメにする
五つの味をまじえた手の込んだ料理は、味覚をダメにする
狩りや競技に夢中になると、人は狂ってしまう
価値あるものを得ようとすると、選択を誤る
タオとともにある人は
感覚の快楽には入り込まない
外側の世界に氣をとられず、
いつも内側の真実に座っている
神遊りら 訳
この世は、感覚の快楽をたくさん与えてくれる
たくさんの美しいものにあふれている
そのあるがままを味わうのはとても愉しい
だけど
わたしたちは
自然な姿をこねくり回して
不自然にしてないかな?
もっと美しいものを見ようとして
もっと美しい音を聴こうとして
もっと美味しいものを食べようとして
自然をこねくり回して
「素」の良さを消してしまってない?
手の込んだものの良さ、というのは確かにある
それは、とても愉しい
でも、やりすぎていないだろうか
何事もやりすぎるとおかしくなる
熱狂は、選択を誤らせる
外側の世界は、たくさんの「モノ」であふれている
五感で感じられるものはすべてモノだし
それで感じられないものも「モノ」だ
外側の世界ー「物質」の世界に
あまりにも溺れすぎると
あまりにも求めすぎると
大体、人はおかしくなる
ほとんどの人は
自分がおかしくなっていること
かなり狂わされていることに氣づいていない
そして
氣づかないままに死んでいく
でも中には
感覚の世界に
溺れまくった末に
「内側」の真実を垣間見る人もいる
そういう人は
外側の世界を変えようしなくなる
外側の世界に対する期待もなくなる
得るための努力も
見返りを求めることもなくなって
誰かのせい、なにかのせいにして生きることもなくなる
そういうことが
ばかばかしくなる
エネルギーの無駄遣いだと知るんだよね
そして
ふしぎなことに
五感でキャッチするものを
もっと深く味わえるようになる
もっと、もっとと求めていたときよりずっと
見るもの、聴くもの、口にするもの
触るもの、香るもの、
そのすべてに
深さと広がりを感じられるようになるみたいだ
特別でもなく、贅沢でもない
あたりまえのもののに
そうすると
「特別」を求める必要はなくなる
すると
もっとも当たり前だと思っていたことこそが
「特別」の贈り物だったことに氣づく
そして
自分がとほうもないやさしさに
包まれていたことを知って
今までそれに氣づかなかったことを
とっても
もったいないなかったな、と感じるよ
~りらの響き~ 案内人 神遊りら
五色(ごしき)は人の目をして盲(もう)ならしむ
五音(ごいん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ
五味(ごみ)は人の口をして爽(たが)わしむ
馳騁田猟(ちていでんりょう)は、人の心をして狂を発せしむ
得難きの貨は、人の行いをして妨げしむ
是を以て聖人は、腹を為して目を為さず
故に彼れを去(す)てて此(こ)れを取る
(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)