いまここ- 無為自然の錬金術

究極のリラックス人生

🌿〜在るがまま〜のスペースからお望みの人生を創造する🌿

創造の音だま🌸サウンドアルケミースペース〜神遊kamiyuuへようこそ🌸

 

意味とか目的、というものを重視しすぎると

生きることがとても窮屈になるなぁ

と実感しています。

 

なりたい自分像、ありたい姿

達成したいこと

 

具体的なくイメージを描くほどに

それは現実となりやすいのは確かです。

 

脳には可塑性があるので

前頭葉に描いたイメージは

抵抗がなければないほど実現しやすくなります。

 

現実化したいことをイメージし続けると

それは確かに現実化します。

 

 

思考のイメージという鋳型に

感情のエネルギーを注ぐことによって

物質は顕現する。

 

そのイメージに抵抗があっても

意識圧の強さと執念があれば

そのイメージは現実のものとなりますが

 

結果、ものすごくエネルギーを消耗することになります。

 

というのも

違和感がある「イメージ」という「鋳型」に注ぎ込まれるエネルギーは

『自我の念』という、有限の粗いエネルギーだからです。

粗いエネルギーは、波動が低いので、多くの量を必要とします。

いわゆる『念』で、現実化している場合です。

 

さて

一般的な規範から外れて何かをやるとき

それ、意味あんの?

それ、なんの得になるの?

それ、何が目的なの?

 

人は大体そう言います。

 

私はここ数年

息子たちからバカにされながらも

エネルギーを注いできたことがあります。

 

それは

歌であり

舞であり

音を奏でることであり

瞑想であり

シャーマニックな儀式であり

読書に没頭することでありました。

 

それをやることで

物質的に得たものはほとんどなかったですし

それどころか

多大な時間とお金を費やして

資金も底をつきました。

 

こんなことをやっていて

お前は氣が狂ってるんじゃないのか?

一家の主として、しっかりお金を稼ぎ

家族を支えなくてはならないというのに。

こんな氣ちがいじみたことに

無意味に金と労力をかけている。

お前は、母親失格だ。

 

と、私のアタマの中の声は言い続けました。

ずっと、何度も何度も、この数年間、ずっと。

 

 

でももう、その声は聞こえなくなりました。

というか、その声の主は、沈黙したのです。

 

自我が認知できる人生の意味や目的よりも

もっと大きなものによって動かされて

行為してきたことを

今、私は実感しています。

 

すると

エゴの声はあきらめて、騒ぐことをやめたのです。

私は、自分の人生の主導権を取り戻したのです。

 

 

今は

意味を探さないから

目的を持たないから

この瞬間を存分に生きられると感じます。

 

自由な自己のフィーリングのままに

この瞬間だけに存在し、行為する

 

すると

自我の領域を超えた意識が注ぎ込まれ

想定外のミラクルな現実が繰り広げられていく。

 

そんな、大いなる営みをひしひしと感じます。

 

誰からも認められる立派な人生は

安心で心地よいものかもしれません。

 

でも、6年前に夫を亡くしてから

もはや私は

そういった人から認められるための生き方を

選ぶことができなくなっていました。

 

アタマの中の声は

私たちが幼い頃から刷り込まれ

縛られ続けてきた社会通念。

それを超えるには、相当な覚悟が必要です。

 

何が待っているかわからない

未知の領域

保証などどこにもない

誰からも認められないかもしれない

 

でも、魂はそちらへ行けという。

 

何でこんなしんどい想いをしなきゃいけないかと自問すれば

とんでもない愚問だと自分を嗤う。

それは、私が切に願ったことだからです。

 

夫が亡くなって以来

私はもう、魂の望みのままに生きることだけに

身を委ねたのですから。

 

ゼロポイントに植えられた本氣の意図は

必ず芽を出し、花を咲かせ、実をつけます。

 

 

数年間、肉体の抵抗は激しかったけれど

ようやく

アタマの中の声は

私の意図に従ったようです。

 

たましいは、目的や意味を必要としないのです。

たましいの本質は『歓喜』なのだから。

 

歓び、喜ぶことしかないのです。

 

無意味に、無目的に生きる。

それは

宇宙の大いなる采配にまかせることとイコールかなと。

私たちが最も歓喜する人生を

宇宙は用意してくれているのだと信じて。

 

それって、究極のリラックス人生じゃないですか?

そして、究極の願望達成法かもしれませんね。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

 

神遊りら