わたしたちに深い悦びをもたらすもの
それはたくさんあるように思えます
大金を手にしたとき
子どもが入学試験に合格したとき
家族で旅行に行ったとき
想い続けた人と一緒になれたとき
ずっと望んでいた願いが叶ったとき
わたしたちは、喜びの感覚に包まれる
これぞ至福、と感じます
ただ
その喜びは
残念ながらあまり長くはつづかない
なぜだろう
これさえあれば、きっと幸せになれると
ずっと追い求めてきた
なのに
その願いが成就されると
今まで特別中の特別だったことが
至極当たり前のことになって
まるで価値のないもののようになってしまう
そしてまた
新たな喜びの元に焦点を合わせて
それを求める
わたしたちは
そんなふうに
何かを求めつづけるように方向づけられている
求めずにはいられないように
それは
喜びの希求という
社会的な強制力かもしれない
そうして
求めて求めて
今度こそ幸せになれると
これを手にすれば幸せになれると信じながら
でもね
どうやら、どこまで行っても
外側に喜びを求めつづける限り
ずっと、何かを求めつづけることになる
深い深い源泉から湧きおこる
そんな歓喜には
到底つながることはないみたいです
わたしはとても欲深い人間で
何かを手にすることばかり考えてきました
望むものすべてを手にすることが
幸せになる唯一の道だと
そう思って
でもね
こんないい年になるまで氣づかなくて
ほんとうに恥ずかしい限りなんですけどね
追い求めるのをやめて
今ここにとどまり
求めない
という立場でいることを
自分自身にゆるすと
違った世界が見えてくることに氣づいたんです
わたしは
めしいのようだった
ろう者のようだった
見るべきものを見ようとせず
聴くべきものを聴こうとせず
大切な人や物を失い
情熱をかけてきたすべてが虚しくなってはじめて
わたしの曇ったまなこと
つまった耳は
ようやく本来のはたらきを始めるようになりました
さて
そうして氣づいたことは
今まで手にしようとしていた
何かを求めた末に得る喜びの感覚が
自分にとって
すっかり古くなってしまったということです
好きな人と一緒にいられるから幸せだ
好きな人が去ってしまったから不幸だ
自分を求めるものを手にしたから幸せだ
求めるものが手に入らないから不幸だ
幸せや不幸の原因を
外界に見ているうちは
決して
本来、わたしたちが味わうべき
たましいのよろこびには
つながることはないんです
そりゃ
願ったものがやってくるのはうれしい
とっても嬉しいこと
ありがたいことです
今、それが起こったらとってもうれしいです
でもね
得ることがすべてになって
そして得たものを
必要以上に永らえようとする
それは
とっても不自然なことだと思うんです
わたしたちは本質的に
求める、願う生き物だけども
必要以上に求めすぎてないでしょうか
あり余るゆたかさに包まれているのに
わざわざ
砂漠の中に身をおくようなマネをしてないでしょうか
与えられているゆたかさを
差し伸べられたゆたかさの手を
わたしの欲しいものはこんなものじゃない
って
わざわざそれをふり払ってないでしょうか
立ち止まってみると
わたしたちは
いつでも選択の余地が与えられていることに氣づくんです
いつだって
どこでだって
ゆたかさはあるし、貧しさもある
どちらを選ぶかは、わたしたち次第です
でも
立ち止まることができず
盲目的に求めつづけていると
自ら選ぶ目を持つことができない
運命の輪に翻弄されるように感じるんです
この世界は
とても残酷だけど
同時にとてもやさしい
わたしたちには
選択の余地が与えられてる
だからね
わたしたちによろこびをもたらす
ただひとつのもの
っていうのは
ただ、「氣づく」ということだけだと思うんです
「氣づく」ということは
それまでとは全く違った意識になる
全く違う視点を得ること
ボロリ、って
目の曇りが落ちたときに
耳のつまりが取れたときに
なんだ、探し求める必要なんてなかった
そういう新しい視点が生まれる
それが「意識」が変わるってこと
外側のモノを追い求めているうちは
モノが優先しちゃって
モノに翻弄される
でも
「意識」という光に貫かれると
ああ、なんだそうか
「追い求める」という
「不足意識」を生み出していたのも
この「わたし」の意識だと氣づく
そして
立ち止まり、過剰な追求はおわる
そして
ただ自然に求めるものは
ただ自然に得られるという
そんな自然ですなおな体験をするようになるんです
求めることは
全然わるいことじゃない
けど
わたしたちは
ちょっと求めすぎたよね
本来の自分ではない場所にきてしまった
本来の自分の場所をみつけたら
不自然さは消えていきます
そうした自然である自分
それが
よろこびをもたらす唯一のものだ
って
ほんとにね
心の底からそう想うんです
~りらの響き~ 案内人 神遊(かみゆう)りら