さとりの中で生きる

天才はどこからくるか

才能って何だろう?

 

それは

特別なひとだけに備わった

誰もが驚愕するような特別なもの?

 

そう思っているひとは多い

だから

「わたしに才能なんてない」

なんて自信をもって言い切る

ひとも多い

 

あの人は才能あるねー

天才だねえ

わたしたち凡人とは

やっぱ違うよねえ

 

あのひとは

「持ってる」よねえ

「わたしは持たざる者」だと

決めつけているひとたちは言う

 

でもどうか

天才と凡人のちがいは

持ってるか持ってないか

じゃなくて

可能性を発揮したかしなかったか

それだけじゃないか

 

みんなに認めてもらえたかどうかじゃなくて

その可能性を自分自身が楽しんだか

ということじゃないか

 

そして

その発揮したものを

だれか一人でも

心からよろこんで

共鳴してくれた人がいたなら

もうそれは

おおいに成功したことになるんじゃないか

 

わたしたちは

だれでも

「最高傑作」をその身にかくし持っている

 

だれにもマネのできない

オリジナリティという最高傑作を

 

でも

わたしたちはそれに氣づこうとしない

そして

ひとのマネをする

 

オリジンー源からきたものでなければ

どんなに世の中でウケたとしても

虚しさは増すばかりじゃないか

 

天才性を発揮するときはいつか?

 

それは

何ものにもなろうとすることをやめたときじゃないか?

 

あの人みたいに

あんなふうになりたい

という考えを捨て

人マネをやめたときじゃないか

 

世間的な成功よりも

内側から湧きあがるよろこびのほうが

ずっとずっと価値があると

氣づいたときじゃないか

 

すると

内なる可能性が天と呼応する

タオの流れと一体となる

 

それを天才と呼ぶのではないか

 

だれひとり、認めてくれなくていい

何も求めなくていい

いのちに満たされる

と実感するこの瞬間

わたしたちは

天の才を生きている

 

天の才を発揮することは

大いなる流れとともに歩むこと

 

人生にわざわざ目的や目標を持つ必要はないけど

唯一の目的があるとするなら

母なる宇宙ータオとともに浮かび

天の才が現れることをゆるすことじゃないか

 

天才は、努力じゃ開花しない

でもだからって

努力が無用なわけじゃない

 

求めて求めて、努力しつくして

もうこれ以上

「自分」として「わたし」として

何もできることはない

それほどに

努力というものの無意味さを悟るほどに

はげしい努力をした人には

 

あるとき

「自力」というエゴを手放し

ゆだねるという選択ができる瞬間がくる

 

それは

自分から掴みにいくのではなく

やってくる

「起こる」んだ

 

だから

わたしたちは

そのやってくる流れを受けとめられるよう

その流れが

わたしたちの中に入ってくるのを

受容できるよう

 

いつのときも

ただ今ここで

くつろいで

自分自身であればいい

 

それが、わたしたちのしごとだ

 

あそびをせむとやうまれけん

神遊りら