老子道徳経
-第58章-
大らかでぼんやりとしている政治の下では
人びとはたっぷりと潤って豊かだ
決めごとや取り締まりが多いと
人びとはカスカスになってやさぐれる
禍いと幸福は表裏一体
禍いのあとには幸福がやってくるし
幸福には禍いがつきものだ
この循環の果てはだれにも知りえない
正しいとされてきたものが、変なものに
善いとされてきたものが、妖しいものに
ひっくり返る、転換の循環
人は、世界のこんなあり方にずっと迷いつづけてる
タオの人は、そのあり方を超えている
きちっとしていてもジャッジしない
きまり正しくても人を傷つけない
真っすぐでも自分をムリにとおさない
眩いばかりのその輝きを
あえて外にあらわさない
神遊りら 訳
わたしたちは
善、正しさを求め続ける
何が正解なのか
何が善きことなのか
それを知り、それを行えば
幸福になれると信じて
だけどね
ここは表裏一体の世界
光と闇
善と悪はセットだ
わたしたちは
時と場所を変えながら
同じものの別の側面を観て
それに囚われつづける
ひとつのものを分離させ
その片割れだけを大事にする
善に見えるものも
悪に見えるものも
もとは同じひとつのものだ
朝がきて夜がくるように
交代にあらわれる
だから
決めつけたところで何も生まれやしない
傷はどんどん広がっていく
この世は残酷でありながらやさしい
タオの人はそれを超えた視点から世界をみる
決めつけず、裁かず、統制せず
ありのままでいる自由をゆるされると
自然と
自らの本性をのびのびと表してくるものだ
そうした自由を勘違いする人たちもいるかもしれない
悪事をやらかすこともあるだろう
だから社会は
統制や粛清は必要だという
でもそうして
監視され、縛られている以上
わたしたちは正と過ちの間を
善と悪の間を翻弄されつづける
永遠にーー
束の間の平和は味わえるかもしれない
自分自身が支配されることと引き換えに
「自分自身でいる」という自由を棄てることと引き換えに
タオの人の視点
コントロールやジャッジのない
やわらかい存在として
そこに自分を置いてみたらどうだろう
そこは「自由」の視点
そこから観た景色は
きっと今までとは別物のはずだ
あそびをせむとやうまれけん
神遊りら
其の政(まつりごと)悶悶(もんもん)たれば
其の民は淳淳(じゅんじゅん)たり
其の政察察たれば
其の民は欠欠たり
禍いは福の倚る所
福は禍いの伏す所
孰(た)れか其の極を知らん
其れ正無きか
正は復た奇と為り
全は復た妖と為る
人の迷えるや、其の日固(もと)より久し
是を以て聖人は
方なるも而も割かず
廉なるも而も劌(そこな)わず
直なるも而も肆(の)びず
光あるも而も耀(かがや) かさず
(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)