老子道徳経
第11章
車の輪は
30本の輻が中央の轂(こしき)に集まってできている
轂の中心の何もない穴があるから
車輪としてのはたらきができる
土をこねて器がつくられる
それは中心に何もない空間があるから
器として使うことができる
戸や窓をくりぬいて部屋はつくられる
その中の何もない空間があるから
部屋として役に立つ
「なにかが有る」ということによって
わたしたちは恩恵を得ていると思ってるけど
その奥、根底の
「なにも無い」ということに支えられていることに
なかなか氣づかない
わたしたちは
この目に見える物質の世界がすべて
そう思い込んでる
五感で感じられる
「有る」世界がリアルだと信じて疑わない
その奥にある「無」の存在が
ほんとうのリアルだというと
だいたい、アブナイ人だと思われる
「有」の物質世界を支えているのはなんだろうか
わたしは
それを10歳のころから問いかけてきた
この現実が肌に合わなかったからね
この現実に何の違和感もなければ
そんなこと問いかけるはずもなかっただろうけど
わたしの個人的な体験を
言葉で説明したとしても
ちょっと暗くて重くなるから
また、次回にしようかと思うけど
そのおかげで
わたしは今
この「有」の世界を生み出す
「無」の存在を
感じることができている
それは、五感じゃ感じられない
五感は、そのヒントにはなるけど
その存在を信じるとか信じられないとか
そんなことも超えている
その存在は
いつもいつも
わたしを常に包み育み
本来の道へといざなってきた
わたしたちは
あまりに鈍感になりすぎて
ほんとうのものが見えず
ほんとうの声がきこえず
ほんとうの香りを嗅ぐことができなくなっている
鈍感、というより
麻痺状態だ
いらないもので
自分を満たしすぎてる
自分の「空」のスペースを
わざわざ不要なもので埋めている
だから
空っぽになる体験をしてみるといい
と思う
何かを望むこともやめてしまうといい
と思う
そんなとき
わたしたちは「無」につながる体験をする
大切なものをうしなったとき
握りしめていたものを手放さなくちゃいけなくなったとき
もう
どこにもよすがを見出すことができなくなったとき
わたしたちは、止まる
どこにもいけなくなる
そうして
否応なしに
「ここにいる」ことになる
それは絶望の淵にみえるかもしれない
でも、そうしてようやく
わたしたちは独り立てる
宇宙は反転している
得ることは失うこと
失うことは得ること
「無」は有を生み出し
有は「無」へと還る
絶望のように見える「無」は
無限だ
きつく握りしめていたものを手放したとき
ほんとうのリアルを知る
いつもいつも
大きな存在に支えられ
育まれていたことに氣づいて
歓喜にふるえるんだ
三十の輻(ふく)は一つの轂(こく)を共にす
其の無に当たって、車の用有り
埴(つち)を埏(う)ちて以て器を為(つく)る
其の無に当たって、器の用有り
戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る
其の無に当たって、室の用有り
故に有の以て利を為すは
無の以て用を為せばなり
(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)