女神たちのタオイズムー老子道徳経

老子道徳経-第1章-タオーふるさとはいつもここに

老子道徳経

第1章

 

「道(タオ)」は

これこそが「道(タオ)」だといって示したり

名付けたりすることのできるものじゃない

言葉で表したり名前をつけたりする以前の

「始源の状態」

この領域から天地が生まれ

天地のあいだに万物が生まれた

 

無欲なひと

純粋なひとは

その「大元」を観ることができるけど

欲にまみれた人間は

末端の「現象」しか観ることができない

 

名のない領域―大元

名のある領域―物質や現象

両方とも、同じものから生まれる

 

その同じものー玄のむこうにもまた玄がある

はかりしれない、はるかな深淵の空間

それは、すべてのものが生まれいづる根源の門

万物のミナモト

 

神遊りら 訳

 

わたしたちの生は

表層から核心へ進んでいく旅

 

その旅の途上で

名付けられることのできるもの

言葉で表せるものには

あまり力がないことを理解するようになる

 

名づけようのない世界へ進むこと

それは生の醍醐味なのかもしれない

 

 

現象や物には

ほんとうは何の力もない

 

なのにわたしたちは

それを生み出すミナモトには目を向けず

現象や物にとらわれつづける

 

でももし

生の体験のなかで

この名付けようのない領域にふれることができたなら

 

この現実世界のとらわれから脱出する機会を得るかもしれない

 

物質世界の奥にある

実在の領域に触れたなら

 

それは

ほんとうはいつだってここにあった

わたしたちが取り逃がしていただけ

 

わたしたちの目がくもっていただけ

 

わたしたちはいつだって

そこから切り離されてはいなかった

 

わたしたちは

大海の一滴

一滴ではあるが大海でもある

 

大海として生きるか

切り離された波の一滴として生きるか

 

波が波として動けるのは

大海がその背後にあるからだ

切り離された波は

動きのない雫になってしまう

 

もし今

自分が今ここに存在していることに

何の理由も必要とせず

ただ安らいでいるのなら

 

それは

ただならぬ至福だとおもう

なににも代えがたいものだとおもう

 

この現象世界の奥にあって

すべてを生み支えている母なる存在の

温かさと深さを

いつもわたしは感じていたい

 

母なる海の意志に身をゆだねながら

 

神遊りら

 

 

道の道とすべきは常の道にあらず

名の名とすべきは常の名にあらず

名無きは天地の始め

名有るは万物の母

故に常に無欲にして以て其の妙(みょう)を観

常に有欲にして其の徼(きょう)を観る

此の両者は

同じきより出でて而も名を異にす

同じきをこれを玄と謂い

玄のまた玄は衆妙の門なり

(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)