老子道徳経
第8章
ほんとうの善とは水のはたらきのようなもの
水は万物の成長に貢献して
争うことがない
多くの人たちが嫌がる低い場所にとどまる
だから、宇宙原理のタオに近い
しっかりと地に根をはり
心は深淵でおちついていて
人に親切で
誠実な言葉で言うべきこといい
場をおさめる
動くべきときを知っているから
大きなしごともできる
水のように生きれば
なにものとも争うことなく
誰からも非難されることもないんだ
神遊りら 訳
「上善水如」という有名な日本酒がある
大酒呑みだった20代のころ
水のようにクセのない飲み口につられて
とんでもない悪酔いをしたことを想い出す(笑)
まあ、そんなことはどうでもよくて
わたしたちは
水に触れない日は一日としてないはず
コップに水を注ぐと
水はその器の形にしたがう
高低差があれば
低いところに流れていく
あらゆるもののいのちを潤し
澱(よど)みを流す
あたりまえだけど
水はそうしようとしているのではなくて
それ以外にはたらきようがないんだね
水は、女性性だ
ほんらい女性はこうした水のはたらきをする
形に沿い、争わず
支え、育む
それは、地位が低いわけじゃない
自己犠牲なんかじゃない
相手に沿い、滋養する
それが本来のよろこびなんだ
自ら出っ張ったりして
形をなそうとしなくても
そうあることが、よろこびなんだ
女性が女性らしくある
ということが
この世界の元氣のミナモトだ
だけど
この社会では
それは女性蔑視だというひとが多い
女性も男性のように
社会に進出して認められるべきだと
「自分」というものを確立すべきだと
社会に女性が出ていくことは
とてもいいことだ
女性は、もともととても能力が高いから
今は「女性の時代」といわれるけど
それは男女の性別を問わず
「女性性」を発揮する人が輝く時代
従来の男社会から押し付けられた「女らしさ」
しいたげられた「女らしさ」
というものとは一線を画す
「女神性」の開花だ
今までは
ねじ曲がった男性性によって
とても乱暴なやり方で
社会は支配され、構築されてきた
支配者と犠牲者の構図
でも、今はそれが終わろうとしている
もう、誰かを支配して
誰かが上に立つ時代は終わる
みんなが輪になって
高い低いのない
先も後もない世の中になる
古来、女神は大地母神
地にしっかりと根を張り
この世のあらゆるものを滋養する
女神はムダに動かない
いつも自分自身であって
動くときを知っている
肚がすわってるんだ
インスピレーションは
水のように受け身になったときに
内側からやってくるんだよ
外側のことに心をとらわれ
何かを変えようと躍起になっているとき
けっして直感はやってこない
タオのエネルギーは流れてこない
水のようであれ
そうすれば
タオとともに流れることができる
争わない
他人とも、自分とも
広がり、受け容れ、沿う
いつもそうしていられたら
だれもその人を攻撃することなんてできない
そのひとは、無敵だ
神遊りら
上善は水の若し
水は善く万物を利して而も争わず
衆人の悪(にく)む所に処る
故に道に近し
居には地なるを善しとし
心には淵なるを善しとし
与(まじわり)には仁を善しとし
言には信を善しとし
正(政)には治を善しとし
事には能を善しとし
動には時を善しとす
夫(そ)れ唯だ争わず
故に尤(とが)め無し
(老子 金谷治著 講談社 書き下し文より引用)