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無敵の人

ほんとうに強い人っていうのは

どんな人なんだろうな、と

ずっと思っていた

 

子どものころ

わたしは、すごい泣き虫で

引っ込み思案で

 

だからずっと

「強い人間」にならなきゃと思っていた

 

その想いの甲斐あってか(?)

わたしは、あきれるほどに氣が弱いままに大人になったけど

周りの人たちはみんな

私のことをとても氣が強い女だと思っていたようだ

 

自分の弱さを恥じてる人は

自分の弱さを認めたがらない

他人に弱みをみせたくない

だから

必要以上に強がってみせる

いつも、硬い鎧をまとって

 

でも、その鎧の下は

表皮を剥がされて

神経がむき出しになってるような状態

 

だからわたしは

強く見えるひとほど弱いのではないか

この世は見せかけと本当は逆なのではないかと

幼い頃からずっと考えてきた

 

でも

そんなひどく氣弱なわたしでも

自分自身の強さを感じるときがあった

 

人が弱くなるのは

どんなときだろうか?

人が強くなれるのは

どんなときだろうか?

 

けっこう長いこと

この厄介な性格と付き合ってきてわかったことは

 

ほんとうに大事な局面では

人は、「性格」を超えるということです

 

わたしは

自分の利益が絡むと

つい口ごもってしまうのだけど

他人のためとか

社会のためとか

自分の利益が絡まないと

すごく雄弁になったりします

 

自己主張、という面では

自分を通すことができないのだけど

「自分」というものをなくしたところからなら

かなり堂々とした態度でいられる

チカラが溢れてくるのを感じる

 

我を通す強さは

この世を生きる上で重要だと思いますけどね

 

でも

小さな我を捨てたときに

「自分」を超えた「自己」が姿を現す瞬間

わたしは自分や他者をとおして見てきました

 

そんなとき

彼らはほんとうに誇らしく見え

本来の自分としての輝きを放ちます

 

ほんとうの強さとは

「己(おのれ)」を捨てたときに

自ずと発現するものなんじゃないか

そう思います

 

おのれを捨てているのだから

氣が弱いとか強いとかいう「我」もないわけです

 

「我」がない状態は

大元、源泉とつながっている

タオと一体になっている

だから、わたしたちは

エネルギーに溢れる

 

氣弱になることも

強氣になることもなく

 

小さな自分にこだわらず

ただ、自分が自分として存在することで

タオのエネルギーは流れ込み

柔らかくも強靭でいられる

 

過剰な弱氣も過剰な強氣も

大体は

「この世は怖いところだから防御しなきゃ」

という

この世に対する不信から生まれます

 

防御を捨てたとき

ほんとうの自分があらわになります

 

強くなる必要なんて

何かになる必要なんて

ほんとうはなかったんです

 

わたしたちがわたしたち自身であるとき

わたしたちは無敵の人です

たとえ

誰かが攻撃しても

傷つくことはない

 

傷ついたと感じているのは

小さな我

そして、その小さな我に氣づいているのなら

それはほんとうの自分ではないということです

 

その「氣づき」のときが

無敵の人になるチャンスです

 

何かになろうとしている自分

何かに抵抗している自分

何かを固持しなきゃと頑張る自分

そんな自分を見つけたら

もういいよ、って

解放してあげられたらいいね

 

そしたら

ほんとうの自分が

勝手にいろいろやってくれるよ

 

それは

驚くほど軽く

摩擦のない世界のできごとになっていくよ

 

あそびとせむとやうまれけむ

 

神遊りら