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わたしがいなくなった日ー2

「わたし」は

っていうけど

「わたし」ってなに?

 

どこまでがわたし?

どこからがわたし?

 

肉体は、ひとつの境界線かもしれない

心やたましいがあることは

いまやみんな当たり前に認めてる

 

カラダっていうボディに

心とたましいが入った存在が

自分だってとらえてる

 

そういう考えが一般的かな?

 

 

でもなんか

どうやら

わたしたちは

肉体というこの小さな容れ物に

たましいや心がはいっただけの存在じゃあない

 

意識を広げていくことによって

とてつもなく大きな存在にもなれるし

逆に

小さく縮み上がることもできる

 

どこまでを自分だととらえるかは

その人の意識のおきどころによる

 

 

わたしたちひとりひとりは

大河の一滴

大海のひとつの波なんて

たとえられます

 

大河や大海は

大宇宙であり、創造主であり

とにかく

すべての可能性を包含する

万能の存在であって

それと同じ質を持った存在だと

 

ただ

大海から離れたしずくに

同じ質があるとしても

大海と同じはたらきはできない

 

「個」の意識としてだけで生きるということは

大河の流れからはずれて

一滴のしずくとして生きることになってしまう

 

一滴の水を自分だ、ととらえて

とにかく自力でがんばる

だと

どんなに努力しても大したことはできない

 

あるいは

自分は大河の流れそのものと同化した一滴

それは、分けようがないのだから

境界のない存在ととらえて

大河の流れと一体化して

ゆったりと流れて生きる

 

どっちの生き方に惹かれる?

 

わたしはわたしなんだ!

われ思う、ゆえにわれあり!

個としての自分以外、信じない…!

 

いつだって

「わたし」は思ってる

「わたし」は考える

「わたし」は感じてる

 

こんなに、こんなに

多くのことを考え、感じている

なのに

自分がいないわけないじゃないか⁇

 

その

考えている自分が

どこからやってきているのか

 

よろこび、かなしみ、怒り

五感の快感、不快感

確かにこんなにリアルに感じている

 

でも

 

その感覚さえ

ほんとうは自分ではないとしたら?

 

絶対的なものではないとしたら?

 

わたしがいない

それは

すべてがわたし

ということでもあるのです

 

 

目に見えるもの見えないもの

存在のすべてが

わたしである

 

そして

個としてのわたし

分けられているわたしは

ほんとうは存在していない

 

「すべてがわたし」

「わたしが存在しない」

これは、逆にみえて

同じことなのです

 

何いってるかわからない?

 

でも

なんとなく

ああ、そうかもしれないという感じがするなら

 

あなたはほどけている

ほんとうの自分に根付いている

母なるタオから

ふんだんにエネルギーをもらってる

 

あなたとわたしは

同じ海、同じ大河

そこから

束の間にあらわれる

ひとつの波

ひとしずく

 

ほんの束の間のこの生を

波どうしで

しずくどうしで

争うことで終わらせていいのかな

 

わたしたちは

ひとつの大河

ひとつの大海

 

波としての自分

しずくとしての自分

それは大いなる冒険

楽しめばいい

 

だけど

同時にわたしたちは

おなじ大河にとけている

 

いざ

ともに流れん

ゆるやかにゆったりと

優雅にその身を浮かばせて

 

あそびをせむとや生まれけむ

神游りら